手記
2020年、その冬にコロナが流行り出した中、何とか卒園や入学を終えて新しい年度が始まろうという時、当時3歳になったばかりの娘は倒れた。
誕生日に買ったばかりの自転車に乗って、近くの祖父母の家に出かけた先での事だった。祖父の買い物に珍しく着いて行く、と言うので送り出し、午後3時頃に帰ってきた時にとても機嫌が悪く、大泣きするのでどうしたのだろう?と思って抱っこをすると、急に腕の中で眠ったようになってしまった。
家族は眠たかったのだろう、と言ったが、私は何だか様子が変な気がして、急いで近くの赤十字病院の救急外来に車で連れて行ってもらった。呼吸も弱いような感じがしたため、窓口でその事を伝えると看護師が慌てて来て、そのまま処置室に来るように言われたので連れて行き、待合室で待つことになった。
その時は、コロナが流行り出した時であったので感染していたのだろうか、そのような症状はあったか、何が何だか全く予想もつかず、かけつけた夫と共に首を傾げるばかりであった。
夕方5時頃、やっと医師に呼ばれ受けた説明はぬ、心臓の動きが弱く、意識が無いという事。原因は分からず、とりあえず心臓の動きを助ける薬を使用してはいるが、それ以上の処置をする必要がある。それが出来る病院に救急搬送すると伝えられる。正直、何を言っているのか、現実味がわかず、他人事のように話を聞いていた。移動中に心停止する可能性もあると伝えられ、私は娘の救急車に同乗した。
搬送先の病院では、医師よりECMOという人工心肺装置をまずは着ける必要があるので手術をする、またコロナの結果が判明するまでは面会も出来ないという事を告げられた。
倒れた娘には、2人の姉がいる。
当時6歳の姉と、同じ3歳の双子の姉だ。
夫と私はその日、姉達に何と伝えたら良いのかと思いながら、心配する気持ちは一緒であるので、自分達も混乱している中、彼女達が分かる範囲で私達がわかる事を説明をした。
その日からみんなの不安な日々が始まった。
一夜明け、コロナの検査結果が陰性だと分かり、やっと面会出来たのは夜7時頃だった。1人しか面会出来ないため、私が会いに行くと、顔も体もぱんぱんに浮腫んで、たくさんの機械に繋がれた辛そうな娘が居た。
その時になって、これは現実なんだと、涙が止まらなかった。
医師からは、風邪による心筋炎ではないか、という事でその治療と、恐らく1週間ほどで回復して装置も外せて良くなる、という旨の説明を受けた。それでも面会のたびに、しんどそうにしている娘を前にすると心配でたまらなかった。
そしてECMOを着けて1週間ほど経ち、心臓の動きも少し良くなってきたという事で、装置を外すことになる。
家族中で、良かった、とほっと一安心していた。
それから数日後、真夜中に病院から電話がある。
また心臓の動きが悪くなり、一度心停止して心肺蘇生を行った事、またECMOを装着する必要がある事、すぐに病院に来て欲しいとの事だった。
自分の心臓もおかしくなりそうなくらい、不規則な音を立てているのに、頭だけは妙に冴えていた。夫は、手が震えて運転出来ない、と言ったので、姉達をお願いし、私が病院に駆けつける。
数日して医師より、心臓の動きが悪い原因は、先天性で冠動脈に走行異常があり、今回倒れる前にも何度か心筋梗塞を起こしていた事、そのため心筋がダメージを受けており今回の心筋梗塞で耐えられなくなった、と告げられ、冠動脈の手術を行った。
倒れてから今まで、はっきりとした原因が分からないまま、もやもやとしながら、日々、娘の回復を待っていたので、はっきりと原因が判明した事は、治った訳では無かったが、家族にとって、とても大きな事だった。
しかし術後も状態は変わらず、ECMOを長期付けている事による弊害も少なからずあった。それまで、必ず良くなって家に帰れる、と自分にも家族にも言い聞かせていたが、もしかしたらもう娘との時間は思ったりより残されていないのかもしれないと、もう1人のよく似た顔の双子の姉を抱っこしながら、静かに泣いた。
そんな時、移植を念頭に、長期で心臓の動きを補助してくれる小児用補助人工心臓装置、EXCORを着ける事を勧められる。
移植待機の期間は、国内では平均2〜3年で、家族にとっても大きな負担となると説明を受けた。また、それが娘の意思では無く親の判断になる事、よく考えて欲しいと説明された。
そして、国内にはEXCORの台数が少なく、持っている施設も少なかった。また、その時点で私達家族が住んでいる関東近郊に装置の空きが無かった。そのため、自宅からは遠く離れた国内の病院での待機になる可能性も示唆された。
倒れてから1ヶ月、毎日毎日何が原因か分からず、良くなる目処も立たず、何をどうしたら良いかも分からず、私たちに出来ることは毎日近くの神社に手を合わせに行く事だけだった。これは娘の意思では無い。それでも、何もお別れも言えずこのままになるより、目覚めた時に大好きな家族に会えたら、絶対嬉しいよ、姉達も夫も祖父母もみんな同じ意見だった。
娘が元気に戻って来るなら協力する、そうも言ってくれた。
そうして、家族満場の一致で、移植を希望することにした。
ありがたい事に関西圏の病院に声をかけていただき、ドクターカーで10時間かけて移動する事になる。娘の事をずっと丁寧に見続け、決して諦めず、最後まで搬送先の病院まで送り届けて下さった病院の方々に深く感謝した。
そして、移植待機の病院は、親の付き添いが必要であったため、母の私が付き添い、夫と祖父母に姉達をお願いする事にして、待機する生活が始まった。
姉達には、出来る限りの説明を行い、今家族の中で1番辛い人に付き添う事、今回は三女であるが、これから先、他の人が辛かったらその人に付き添うと説明をした。姉達は戸惑いながらも、家に妹が帰ってくるなら頑張ると言ってくれた。
付き添いを始める数日前、面会に行くと倒れてからずっと寝ていた娘が目を開けて起きていた。私の事はよく分かっていないようだったが、その顔を見た時、心底ホッとした。
しかし、3年間一緒に居たのに、たった1ヶ月で娘の様子は大分変わっていた。目覚めたら、知らない場所で知らない人に囲まれて、胸には管が着いていて装置と繋がっているのだから、大人でも戸惑う状況だと思う。
付き添いを始めた当初は暫く口もきいてくれず、このまま喋ってくれないのではないかと心配になった。それでも、一緒に居れる事が嬉しくて、めげずに毎日話しかけたり本を読んだり歌を歌ったり、いろんな事をした。
そのうち、ぼんやりしていた娘の顔がしっかりしてきて、アンパンマンを見ながら鼻歌を歌ったり、徐々に笑ったり、少しずつ話をしたりしてくれるようになった。
それでも、あくまで装置の補助を得て娘は生きている状態で、寝ている姿を見るとそのまま起きないんじゃないかと、付き添って暫くは心配で、夜中に何度も何度も起きて生きていることを確認していた。
そうして数ヶ月は、娘もしんどそうにしていたので、片時も離れ難くトイレもお風呂もそこそこに出来るだけ娘のそばに居て、娘を見守っていた。
その間、家に残った娘達も必至に頑張っていた。
1番上の姉は、コロナで1ヶ月遅い新一年生の生活をスタートし、3歳の娘は保育園に通う事になる。ランドセルを背負って登校するのを見送る事も、宿題を見てあげる事も、熱が出た時に側に居てあげる事も出来ず、ただただ残して来た家族の健康と無事を祈るばかりだった。
3ヶ月ほど付き添って、少し娘も落ち着いてきたくらいに、自分の不調を感じ始める。思えば、毎晩簡易ベッドで寝返りはうてず、3食コンビニ、お風呂もシャワーをざっと浴びる程度、病室には、ご飯中でも寝ている時でも、誰かがやってきてプライバシーも何も無いような状態である。
体調不良を訴え、娘の担当医や看護師、保育士さんにも協力してもらい自分の病院を受診させて貰いながら、付き添いを始めて4ヶ月、夫と初めて交代をする。
家に帰ってまず感じたのは、娘達に会えて嬉しいという事と自分の体力が思ったより落ちている事にびっくりした。
病院では娘のお世話をするので立っていることが多く、動いている事が多いような気がしていた。しかし、家に帰ってそれまで普通にこなしていた家事をやろうとしたら、体が全然付いていかずびっくりした。
でも、家で作ったご飯を食べて、好きなだけお風呂に入り、自分の寝所で朝までぐっすり寝れるのは何て気持ちがいいのだろうとしみじみと思った。
そこからは、この付き添い生活は私が具合が悪くなったら破綻してしまうのだと、身に染みて感じ、ご飯、サプリ、エレベーターを使わずに階段の上り下りをする、など自分にできる体調管理はなるべく行うことにする。
娘は装置を付けながらも、日に日に元気になりベッドの上で歩き回ったりするようになった。特に、リハビリで床の上にマットを敷いて遊んで貰うのが楽しいようだった。
そうなると、今度は装置をつけるために血液が固まりにくい薬を飲んでいるため、頭をベッド柵にぶつけたりベッドから落ちたりしないように気をつけなければならなかった。娘は元来活発な方であったので、動けるようになってきた事が嬉しくてベッドの上を走り回ったりと、活発に動き回ろうとするので、常にハラハラしながら見守っていた。
四方の柵には頭をもぶつけても少しは大丈夫なように段ボールやお布団や可愛らしい敷物を掛けて、ガードを作った。
娘にも、私が買い物やお風呂、トイレで居ないような時には絶対に立たないように言い聞かせた。
付き添って半年経ちあと数日で年越しという頃、娘が肺炎になる。急に吐き気を訴え高熱が出た。特に大きなウイルスや感染ではなかったが、肺炎を起こしており、ちょっとした風邪でも侮れないのだと、装置を付けているから決して安全という訳ではない。いつ何が起こってもおかしくない状態なのだと、改めて認識する。
肺炎が治ってからはより一層手洗い消毒、食事もしっかり食べるように促した。
そうこうしている内に春になる。娘が倒れてから、一年が経ったのだと、感慨深かった。しかし、コロナの影響なのか一緒に待機していたメンバーはずっと変わらず、誰も装置から離脱していかない。
もしかしたら、もうこのままずっと移植は来ないのではないか、いやいや、そんなはずは、と不安になった。
そしてとうとう、待機して1年経とうという頃、一緒に待機していた子が移植を受けて離脱する。本当に移植出来る日は来るんだ、娘を連れて家に帰る日は絶対に来るんだと、強く感じた。
この待機期間は、ただただ待つのでは無い。大事な1日1日なのだと、そんな気持ちで娘を見守った。体は、装置に繋がっていてほぼベッドから出る事が出来ないけれど、心は自由でのびのびと育って欲しいと思い、防水マットを敷いて洗面器で水遊びや、ベットに広げた大きな紙に絵の具でお絵描きをさせたり、クリスマスにはクリスマスツリーを見に行くことが出来ない娘のために、壁に大きなクリスマスツリーを一緒に作って貼ったりと、色々と工夫をした。
気付けば、1人、また1人と一緒に待機していた子達が移植していき、娘もそろそろ待機して2年になろうとしていた。
そろそろ、2年経つので交代時にあまり揃う事の無い両親が病院に揃ったタイミングで一度、医師より今の娘の状態を、という事で説明を受ける。幸い、娘自体は大きな問題は特に無いがコロナの事もあり、待機期間が以前より伸びていると言われる。
あと2、3年は待つのかもしれないと思い、長女の小学校生活を側で見守ってあげる事は出来ないかもしれない、次女の入学式も行ってあげる事が出来ないかもしれない、と腹を括りながら、交代から付き添い生活に戻る。
それから数週間後、娘にドナーが出た、と言われた。
正直、複雑な思いだった。
嬉しい、しかし、娘をまた大きな手術に送り出さなければならない心配、移植後の事、それから何よりドナーのご家族の事を思って、暫く一睡も出来なかった。
そして、手術の日になる。
それは、偶然にも付き添い生活が始まり移植登録を2年前にした日と、同じ日だった。
色々な思いがある中、ふと見ると、私や医師、看護師、チャイルドライフスペシャリストの方から説明を受け、手術に向かう娘の背中が頼もしく、しっかりと前を向いていてとても眩しかった。
2年前に待機を始めた時は、とても弱々しく赤ちゃんっぽさが大分残っていたのに、いつの間にこの子はこんなにしっかりしたのだろう、とびっくりした。
その姿を見たからか、手術中も集中治療室に入って離れている間も、不思議と大丈夫と、怖いとは思わなかった。
そうして手術後一週間で、また一段と頼もしさを増した娘の付き添い生活が始まった。しかし、この付き添いは終わりのある付き添い生活である。
この2年間とは全く違う景色だった。
終わりの見えない付き添い生活は、長かった。でも振り返っての2年は、そんなに長い期間でも無いような気がして、不思議な感じがした。
いつ落ちるともしれない崖っぷちのような所を足元を見失わずに、歩いてこれたのは、家族、病院のスタッフ、一緒に待機していた子達や、その親、他の治療で入院されている子達、その親、私が体調不良の時に事情を把握して診てくれた医師、そしてこの事を知る周りの友人、知人、たくさんの人に支えられていたからだ、と深く感謝した。
今、娘と私は家に戻り、家族と共に過ごしている。
何年か別に暮らしていたとは思えないくらい、自然と元に戻った。でも、みんなここに至るまでに沢山いろんな事を乗り越えた事を、知っている。
娘は小学生になり、毎日元気に学校に通っている。
お友達や先生のお話を嬉しそうにしたり、姉達と遊んで笑い合っている姿を見ると、思わず涙が出そうなほど嬉しくなる。
と同時に、沢山の希望を背負って生きているこの子達が、元気に楽しく、自分らしく成長していけるよう、しっかり見守っていかなければ、と強く思う。
移植医療は、様々な課題、問題がたくさんあるのだと思う。
待機する、家族の負担もとても大きく、我が家のような家族がいる事を知っている人も少ない。
今後、理解してくださる方が増え、これらの課題、問題が少しずつでも改善されて良い方向に向かうと良いな、と心より思う。